History 高津久本店の歴史
糖界のよね
明治・大正の頃、砂糖業界の実力者であった鈴木岩次郎、高津久右衛門、岩崎定三郎の妻の名は3人とも「よね」であり、いずれも女傑として知られた彼女たちを称して「糖界の三よね」という言葉が流行りました。そのうちの1人が、高津久本店の創業期に活躍した高津よねです。
鈴木よね
(鈴木岩次郎の妻)
高津よね
(第19代高津久右衛門の妻)
岩崎よね
(岩崎定三郎の妻)
明治2年、平安時代より続く高津宮の神主の娘として生まれた高津よね。同じ年に、父の第18代高津久右衛門が道頓堀の地で商いを始めました。よねはわずか10代半ばにして自らの意思で砂糖の小売を始め、類まれなる商才を発揮。10年ほどで界隈で指折りの砂糖屋へと成長させ、その間に大阪の大手砂糖商の出であった夫と結婚します。やがて夫は第19代高津久右衛門を襲名。大日本製糖の設立に関わり、さらに砂糖貿易株式会社社長、砂糖取引所組合理事長などを歴任し、日本糖業界に名を残しました。一方でよねは、砂糖の商売を小売業から卸売業へと発展させていきます。
よねの商才に関しては数々の逸話が残っており、中でも、夫の洋行中に相場で大当てし、帰国した夫が木造から鉄筋コンクリートに建て替わっている店舗を見て驚いたというエピソードは有名。腕利きの相場師としても名を馳せたよねですが、株取引はあくまで家の財産保全のための手段だと考えていたようです。何より大切にしたのは本業である砂糖の商売と、質実剛健な精神。一方で、必要だと判断した場面では出費を惜しまない気前の良さもあり、将来性を見込んだ丁稚を大学まで通わせたり、従業員が治療費の心配なく病院に通えるシステムを作ったりもしました。日本の砂糖業界の礎となったよねの功績と、世の中全体を見通す広い視野と人情味を兼ね備えた商売人魂は、現在も高津久本店に受け継がれています。